人工言語野

ことば感

嘘と呪文

言語は想いの発露で、意志を形にする為の最初の道具で、物事を形作る基本ルールです。 それはルールの集合体とも言えるでしょう。 ですから、みんなで同じ記号を共有することで初めて力を持ちます。

たとえば、呪文という種類の言葉があります。呪文も幽界と現界で意味を共有して力を発揮するという考えの上に成り立ちます。 呪文の真偽は別として、あまたの呪文の仕組みが同じなら、意味の分からない言葉を何遍繰り返しても働きを生じることはないでしょう。 言葉を使うには、必ずその意味について理解をしている必要があります。

日本には「言霊:ことたま」という言葉があります。言葉には力が宿り、人を動かし、天地を動かすという考え方です。

「水をください」という一言は、それを聞いた人に伝わり、水を汲んできてくれるでしょう。 ですが、「私を殺してください」という一言はどうでしょうか。とうてい簡単にはかなえられません。
ではこういう場合はどうでしょう。気持ちを込めずにいい加減に「水をください」と言った場合と、本当にのどがカラカラで、心の底から欲しいと願ったとき。

当たり前ですがその違いは相手にハッキリと伝わります。想いが強く発露した言葉には説得力という「力」が宿ります。 そして同時に、その言葉を受け止める者にも同じ受容力が求められます。 受容力と云うと難しいので、受け止める「覚悟」と言えばいいでしょうか。
極端な話ではあるのですが、「私を殺してください」という言葉に「力」が宿るのなら、その言葉を受け止められる人を選ばなくてはなりません。 「とうてい、かなえられない」というのは言葉を受け止めることが出来なくて、拒絶するという状態です。 受け止める人の感性や社会的通念、道徳観や人生観をも飛び越えてしまうくらいの力があったら、それは単なる言葉じゃなくて、もはや呪文かもしれません。

全ての言葉には同じ原理が働いています。意志を発し、想いを発し、受容されて作用する、という簡単な原理です。挨拶でもなんでも、発するものがいて、受け取る者がいるという関係は同じだと思うのです。 言語活動が始まったばかりの時代は、「言葉=意志・想い」だったに違いありません。現代は「言葉=(意志〜想い〜嘘)」という感じでしょうか。 (〜)のあたりは、時と場合によって微妙に入れ替わったり、不等号記号などが入る箇所です。言葉にとっては決して良い時代ではありません。



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